[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
こんにちは、弁理士の宮﨑浩充です。
関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制
笠谷 和比古 著
(講談社選書)
1994年に出版された古い本です。
といっても、私が大学生の頃なのですが、もはや20年以上昔のことです。
さて、歴史学者の関心も高く、研究が非常に進んでいる関ヶ原合戦ですが、上記の本では概ね今日の通説となっている見解が示されています。
やはり歴史を関心とロマンで眺めるのではなく、資料(しかも信頼性の高い一次資料)を重視して事実を検証し、全体的な整合性がとれるような安定した推論を進めるあたり、歴史学者の著書というのは、面白みに欠ける代わりに(イヤ失礼)、安心して読むことができます。
著者が関ヶ原合戦の原因として挙げるのは、主に以下の要素です。
(1)豊臣秀次事件に端を発する秀吉の後継者選びにおける確執
(2)徳川、毛利など有力大名を政権の構成要素に組み込んでしまった豊臣政権の構造
(3)石田三成ら吏僚派と福島正則ら武功派との確執
このうち、(1)と(2)が大きな原因となっており、(1)と(2)により醸成されている不安定な状況の下で、(3)が戦いのトリガーになったと見ています。
小説的世界では、(3)が特にハイライトされたりしますが、性格の不一致や不仲などの人間関係だけが原因で、あのような政権が交代してしまう大合戦が行われるわけがないですよね。
そうすると、そもそも秀吉が樹立した豊臣政権自体に欠陥があったため、この政権は秀吉一代限りで終わる運命だったということになります。
秀吉の置かれていた立場からすれば、政権の構成はあのようにならざるを得なかったという事情もあるでしょう。
先祖代々の武家であれば、譜代の家臣を政権中枢に据えるため、外様の大名衆が政権を構成する側に回るという事態はおそらく生じません。
秀吉は元々武家ではなく、また、本能寺事件発生後の短期間に政権を樹立したことから、統一政権を支えるだけの譜代の家臣を形成することができませんでした。
だからこそ、朝廷を権力の後ろ盾にするため関白様になったのでしょうか。これは単なる私の推測ですが。
豊臣政権崩壊を経て確立された徳川幕府では、これに対する反省がしっかり生かされています。
つまり、外様大名を政権内部に組み込まず、また、相続争いを起こさせないよう長子相続制を確立させました。徳川幕府が250年以上続いたのは周知のとおりです。
そして、家康は先祖代々の武家であり、層の厚い一門衆や譜代の家臣をかかえていました。
天下というのは、それにふさわしい運命の人に転がり込むように思えてなりません。